[新版]平成テクニカルライター養成講座

電子書籍になりました。新項目を追加して発売中!


技術評論社「The BASIC」連載
平成
テクニカルライター
養成講座
Text by Kazumi Takei

 



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今月のお題
第8回(97年8月号)
テクニカル文章読本


っ人ゲット!

 6月の中旬に、今年になって7冊目の自分の著書が出た。
 最初の1冊、2冊は、去年のうちに書いていたとはいえ、今年は月1冊ペースをちょっと上回っていることになる。しかも、今月は3冊同時進行で、さらに雑誌連載が3本。すでに企画が通り、原稿が上がるのを待っている本が5冊以上。ちょっとオーバーワークなのだ。

 そんなわけで、助っ人をゲットした。この連載の毎月のお題に応募してくれた読者のなかで、ちょっと気になる方がいたので声をかけてみたのである。これがまたラッキーなことに、すでにライター稼業に片足を突っ込んでいて、夏からは会社もやめてライター1本でやっていくという決断をしていた。
 とりあえず、次の単行本の企画意図を説明し、導入部の原稿を書いてもらった。少々粗削りで、最終的には少し手を入れないと使えそうもないが、それでも自分で最初から原稿を書くことを思えば、だいぶ楽になる。

 このところ、パソコン書の売れ行きが落ちてきたそうだ。そりゃあそうだろう。Windows95の発売をきっかけに、これまで理工書やパソコン関連の書籍など発刊したことのなかった出版社が、軒並みこの分野に参入してきたのだ。もちろんなかには成功している出版社もあるが、撤退した社も少なくない。
 パソコン書籍の作り方には、それなりのノウハウがあるのだが、それを知ろうともせず、売れているからという理由で粗製濫造の結果が、このありさまなのである。

 ライターの質も、どうも落ちてきたと思うしかない。会社で営業報告書ぐらいしか書いたことがないという人が、ちょっとパソコンに詳しいからといって、ライターにスカウトされてしまったなんてケースもあるのだ。あるいは自分は自社ソフトのマニュアルを書いていたなんていうライターもいるだろう。悪評高い難解マニュアルのライターが、一般書店で売られる初心者向けのパソコン本が書けるかどうか、誰が考えたって疑問なのだが、本人はいっぱしの文豪気取りでいる。

 もちろん、逆のケースだってある。週刊誌の記者や実用書のライターをやってきたが、どうやらパソコン本が売れているからと、一夜漬けでパソコンを導入し、ついでに本まで書いてしまったってクチだ。パソコンに詳しくないということを、売り文句にしているパソコンライターさえいるほどである。

 そういう質の低いライターが、あっちこっちに出現し、あちこちでパソコン本を出した。大量に初心者を産み出したWindows95発売当初ならいざしらず、95から97に移行しようって現在、読者の目だって肥えてきている。
 そんな読者の目に耐えられるパソコン本を書くためには、まず企画が重要だ。この連載で口を酸っぱくして書いてきたことである。そしてその次が、この企画をどう形にするか、つまり文章や制作なのである。
 というわけで、今月はテクニカルライターの文章技術について伝授しよう。

昧さを排除するテクニック


 文章技術とはいっても、パソコン書籍やソフト解説書、あるいはマニュアル本、なんでもいいのだが、これらテクニカルライターが書く文章が、他の文章と異っているわけではない。
 もちろん、小説や詩、短歌、学術論文といったものの文章とは異っているはずだ。それは対象となる読者と、さらに文章の目的を考えればわかるだろう。

 テクニカルライターが書くものにも、読者対象や目的が異るものがある。ソフトに添付される純粋なマニュアルもあれば、上級ユーザー向けにだけ書かれる解説文だってある。が、ここでは一般書店で売られる初心者または初心者のちょっと上のレベルの読者向けに書かれる解説書や雑誌記事の文章、と既定しておこう。まあ、ごくごく一般のパソコン書やソフト解説本だと思えばいい。

 これらの本は、いってみれば「金魚の飼い方」だの「トランプの楽しみかた」だの、あるいは「楽しいミニ4駆の改造法」だの「株式会社の設立法」だのといった、いわば従来からある実用書とまったく同じなのだ。
 テーマがパソコンやパソコンのソフト、あるいはインターネットやパソコン通信といったものであるというだけで、つまるところ理工系実用書なのである。

 実用書だとすれば、おのずからその文章の書き方だってわかるだろう。レトリックを使い、情感に訴え、行間をイメージさせる……といった文芸系の文章とは、もちろん対極にあるものだといっていい。
 なるべく具体的で、読者のイメージを排し、事実をきちんとおさえていく。実用書だから、実用になるよう、そのノウハウを記述し、読者を導く必要もある。

 こう書いても、まだわからない方もいるだろう。具体的にというと、すぐに箇条書きにするようなライターだっている。それだけ日本の文章教育がいいかげんだともいえるのだが、それは言っても仕方がない。
 具体的とはどういうことか? たとえば、次の質問に答えてみてほしい。
「オケラのチンチン、どのくらい?」
 実はこれ、筆者がまだ駆け出しのころ、先輩ライターに受けた質問だ。オケラというのは、お螻蛄のこと。コオロギに似た昆虫だ。このオケラの一物が、どのくらいの大きさなのか説明しろというのである。

「これくらい」
 と指で示すものいいだろう。が、それを文章で書くためには、モノを文章で表わすことのテクニックが必要になる。小さい、ものすごく小さい、極小、あるいは大きい、でかい、そして美味しい、まずい、暑い、寒い、少ない、多い、高い、低い……、日本語は実に曖昧な言語なのだ。
 この曖昧さを排除するためには、数値をもってきたり、あるいは誰もが類推できるものと比較するといったテクニックが必要になる。

「オケラのチンチンは、直径0.2ミリで、極細の棒状約0.4ミリ……」
 この数値が本当かウソかは知らないが、こうして具体的に数値を出したほうがわかりやすい。具体的とは、こういうことを言うのだ。箇条書きにしたり、文章をブツブツ切ったりすることではない。

 あるいは、前述したように日本語というのはひじょうに曖昧なものだ。この“ひじょうに”という表現も実に曖昧であり、解説本では極力使わない言葉だが、それはともかく、曖昧な言語であることはたしかだ。
 たとえば、こんな文章がある。

 右端にあるウィンドウのボタンをクリックする。

 簡単な例だ。解説のなかにこんな文章が入っていれば、スッと読めてしまうはず。書くほうも、たいていは勢いで書いてるから、こんな文章をすぐ書いてしまいがちだ。
 だが、この文章にはいく通りかの解釈がある。ちょっと句読点を入れてみればすぐわかるだろう。

 右端にある、ウィンドウのボタンをクリックする。
 右端にあるウィンドウの、ボタンをクリックする。
 右端に、あるウィンドウのボタンを、クリックする。
 右端にあるウィンドウの、ボタンをクリックする。

 こうして1つ2つの読点を入れただけで、この文章が何を意味するのか、どのような操作を行なえばいいのか、まるでわからなくなってしまう。同じような場面なら、読者はさまざまな操作を行なうだろう。
 で、どうなるか? 書いてあったとおりに操作したのに、まるで違った結果になったではないか、と怒るのだ。そして、マニュアルはわかりにくいとため息をつく。

 読者の頭が悪いなどと、勘違いしてはいけない。これはライターが悪いのだ。ライターの書く文章が悪いのだ。
 もちろん、この文章の前後に書かれた文章を読めば、正しい操作は1つしかない場合もあるだろう。あるいは、実際にパソコンやソフトを操作したとき、この文章で表わされる動作は、たった1つの操作でしかない場合だってある。
 だが、文章は悪い。どこが悪いのか。

 まず、読点によって何通りもの意味に読み取れる文章は、説明文としては不適当だ。これはいま説明したとおりである。
 次に、「右端」とはどこのことなのか、この文章だけでは判然としない。前後の文章があるはずだから、それから類推できるだろうが、できない場合だってある。何の右端なのか、たとえばオープンしているウィンドウの右端なのか、デスクトップにオープンしている複数のウィンドウの右端のウィンドウなのか、ウィンドウのなかにオープンしているダイアログボックスの右端なのか、そのあたりさえ判然としないのだ。
 さらに、「ボタン」とは何なのか。そのボタンには、何らかの説明が書かれているのかいないのか。クリックするのは、マウスの左右どちらのボタンなのか。

 さまざまな曖昧さが、この文章のなかには入っているのだ。この曖昧さを極力排していくことで、この1文はもっとわかりやすい文章になる。
 日本語の文章が曖昧なのは、もちろん筆者だけが指摘していることではない。また、その曖昧さを避けるための技法も、すでに先達が書いている。たとえば、本多勝一氏の『日本語の作文技術』(朝日新聞社/朝日文庫)を読んでみるといい。
 この『日本語の作文技術』は、実用的な文章を書く場合の具体的な技法をまとめたものだ。本多氏だから、あるいは新聞記事やその解説記事を書くためのテクニックだと言い換えてもいいかもしれない。また、ノンフィクションを書くためのものといってもいいだろう。
「読む側にとってわかりやすい文章を書くこと」
 この本の冒頭の、最初にゴシック体で出てくる文章だ。読む側にとってわかりやすいとは、そのままパソコン本やソフト解説書にも当てはまる。とくに初心者向けの解説書を想定しているなら、初心者がどこで間違えやすいのか、どういう部分で操作を誤るのか、そういうことをイメージし、その上でわかりやすい文章を書く必要がある。
 テクニカルライターだからこそ、“読む側にとってわかりやすい文章”を書くことを目指す必要があるのだ。

版の多用の危険性


 何らかの操作の説明を、文章だけであらわすのは難しいものだ。とくに、駆け出しのテクニカルライターにとっては、自分だけがわかっているつもりでどんどん文章を進めてしまう傾向も強い。こういう解説書を読むと、「読者をナメんなよ〜」とつい毒づきたくなってしまう。

「わかりやすい文章」というと、すぐに図版を持ち出すライターもいる。文章ではわからないから、図版を載せましたというわけだ。
 たしかに、文章だけではわかりにくい部分も、具体的な図版、たとえば画面に表示されるウィンドウや操作部分の拡大図などを示してやれば、読者にはわかりやすいだろう。ところが、それはわかりやすい文章があってはじめて、効果が上がるものなのだ。そこを勘違いしないでいただきたい。

 具体的に示すことでわかりやすくするため、図版を使うのはいいが、文章で説明するのが難しい、あるいは面倒だからと、図版に逃げるのはライター失格だ。ライターとは、文章を書く職業のはず。だとすれば、まず文章で説明するクセをつけたほうがいい。
 ただし、読者対象を見きわめるのも大事だ。若い読者向けのソフトの解説書なら、図版を多用してもいいが、年配の読者が対象となる場合は、文章を多めにするといった具合。

 以前、同じソフトの解説書を2種類作ったことがある。1つは図版を多めに入れ、いま流行の図解解説本のような作りの本にした。もう1冊は、従来どおり文章で説明し、わかりにくい部分を図版で補強した。
 同じソフト、しかも初心者向けのソフト解説本だけに、実は図版を多用したもののほうが売れると予測したのだが、美事にハズレた。文章を主体とした解説本のほうが売れたのである。

 もちろん、出版社の営業力も異っているし、本の定価や見栄え、あるいは表紙のイメージなど、本の売れる要素は1つだけではない。しかし、どう考えてもこの場合、文章が主体だったから売れた、という結論しか出なかったのである。
 というのも、このソフト解説本、実はパソコン通信系のものだったのだが、巷で流行っているパソコン通信なるものが、どういうものなのか知りたい、といった年配の読者が多かったようなのである。図版を多用すると、このような解説本に慣れていない読者は、ひじょうに読みにくいと感じ、敬遠したのだろう。

 逆にコミックで育ち、ソフト解説本にも馴染んでいるような若い世代の読者は、図版がたくさん入っていても気にしない。むしろ、下手な文章を読まされるよりも、図版とそのキャプションを追いかけるだけでわかるなら、そのほうが手軽だと感じることも多い。

 このへんのバランスは、実は微妙なものなのだが、その微妙なバランス感覚が身につくまでは、まず文章で説明することを心がけるべきだろう。
 書かれた文章だけではわからないとき、あるいは図版を入れたほうが効果的なとき、それは編集者が指示してくれるはずだ。編集者の指示にしたがって、必要な図版をキャプチャーし、挿入すればいい。

 図版が主体の解説本というのもある。いや、いまはこんな図版本が売れ線にもなっている。
 こんな本を見て、なんだ自分でも簡単に書けそうじゃないか、と感じるライターも少なくないだろう。ところが、これが意外に面倒で難しいものなのだ。
 たとえば、収録する図版。どの図版を入れ、どこを省略するか、もちろんライターも考えるが、それ以上に編集者も考えざるをえない。図版が主体となると、まずレイアウト(紙面の割り付け)優先になるからだ。レイアウトを優先すれば、当然ながら文章量にも制限が出てくる。必要なことを必要な文字量で、いや、必要な操作を極端に少ない文字量で説明するのは、慣れたライターでも難物なのだ。
 しかも図版が多ければ、説明する操作の例外や別の方法といったものを書き込むのも難しくなる。図版を追いかけていけば操作手順が理解できるというのは、逆にいえば、図版以外の説明は省略するしかないわけだ。

 早い話、ウィンドウを閉じるためには、ウィンドウ右肩の「閉じるボタン」を押すだけで、たとえば「ファイル」メニューの「終了」や、ウィンドウ左肩のアイコンのダブルクリック、さらにコントロールメニューの「閉じる」などは例外になる。そういう操作の説明は入れられないわけだ。これはライターにとって、かなりのストレスに違いない。
 パソコン本やソフト解説本に掲載する図版は、ひとつひとつすべて掲載する意味がある。その意味を考えていけば、わかりやすくするためになどと安易に図版を使うことはなくなるだろう。

版社によって書き分ける


 そこそこわかりやすい文章が書け、また掲載する必要のある図版の判断もつくようになれば、テクニカルライターとしてもかなりいい線までいけるだろう。
 だが、それだけではない。1つの出版社と付き合うだけで満足しているならいいが、たいていは複数の出版社と仕事をすることになるだろう。

 複数の出版社、あるいは複数の編集部と仕事をすると、それぞれの仕事の進め方の違いに、最初はかなり戸惑うかもしれない。たとえば以前にも書いたことがあるが、収録する図版まで含め、すべての原稿と図版をライターが揃えるところもあれば、編集者が原稿に合わせて図版をキャプチャーするところもある。

 あるいは、文章を「です・ます体」で書いてほしいという出版社もあれば、「だ・である調」で書いてほしいという社もある。資料や写真、ときには使用パソコンやソフトまでそろえ、取材先のアポイントまでとってくれる編集者もいれば、まったく何もしない編集部だってある。

 ひとつのやり方だけで、それがすべてだなどと思わないほうがいい。「箇条書きはなるべくするな」と書いたが、編集部によってはなるべく箇条書きにして、小見出しをたくさん立て、図版を多用するようにと要求してくるところだってある。
 実は、パソコン本やソフト解説本の分野では、どのような本がいいのか、編集者でさえわかっていないことが多いのだ。いや、編集者の勘や予測が、どんどんハズレている世界でもあるのだ。

 たとえば、絶対に売れないと編集者が妙に自信をもって断言した本が、あれよあれよという間に売れてしまったことも、1度や2度ではきかない。ユーザー数より、売れた本の部数のほうが多いなどという奇妙な現象さえあった。そういう世界なのだ。
 複数の編集部、いや複数の編集者とつき合う場合には、だからテクニカルライターにも相手に合わせた対応が必要になる。たとえば、原稿のなかで使う用語だって、出版社や編集部、あるいは編集者によって変える必要だってある。

 別の分野でも同じだが、出版社には独自の用語基準というものがある。たとえば、「行なう」とふり仮名をふる社もあれば、「行う」と短く書く社もある。「コンピュータ」とする編集部もあれば、「コンピューター」と音引きするところもある。
 代表的なところでは、朝日新聞社は「コンピューター」と音引きしているが、日本経済新聞社系では「コンピュータ」だ。

 これらの用語の統一は、原稿が上がってから編集者がやってくれるはず。だからライターがあまり気にする必要はないが、編集者の手間を減らし、ひいては重宝なライターだという印象を持たれるには、用語統一など原稿段階でライターがやってしまってもいい。
 自社で辞典や辞書を発刊している出版社なら、用語もこれらの辞書に準じているから、必要なら出版社別に辞書をそろえてしまってもいい。

 かつては、岩波書店の広辞苑、あるいは岩波国語辞典が、用字用語の基準とされていたが、最近では共同通信社の『記者ハンドブック』という用語集に準じている出版社が多いようだ。これも手元に置いておくといいだろう。最新版の第8版には、JISコードの付加された漢字表も掲載されているから、パソコンで原稿を書くテクニカルライターならイザというとき安心だ。

 あなたがまだテクニカルライター志望者なら、とにかく文章を大量に書いてみることを勧める。とにかく書く。自分で企画を立て、1冊分、最低でも400字原稿用紙で500〜600枚ほど書いてみる。パソコンのCRTでいえば、1行40字で5000〜6000行ほど書いてみるわけだ。
 1冊書き上げれば、文章はかなり上達するだろう。2冊書けば、もっと上達する。ただし、それ以上は書いても意味がない。書いたものを先輩ライター、あるいは編集者などに添削してもらい、自分の文章のどこがどう悪いのか、わかりにくいのか、といったことを研究したほうがいい。それが見えてきたら、もう一度書き直してみる。それが文章上達の早道だ。

 あるいは、好きなライターの書いた文章を、そのままパソコンで打ち込んでみるというのもいい。昔でいえば、師匠の原稿を、そのまま原稿用紙に書き写す作業と同じだ。
 なぜ、こんなことをするのかといえば、それは文章のリズムを身につけるためである。文章には、ライターによってそれぞれ異るリズムがある。それは句読点の打ち方、改行の位置、1文の長さなど。あるいは、漢字の使い方、動詞や形容詞の使い方といったものもわかってくるだろう。

 あまり長い文章を書き写すのは意味がないが、短いもの、雑誌記事で10ページほどのものを、句読点も含めて正しく書き写してみると、それだけで文章力がきっと上がるはずだ。
 そして、わかりやすい文章を書くコツがつかめてきたら、さらにコラムやエッセイを書くために、今度は自分だけの個性の出せる文章を書く練習もしてみるといい。が、そこまできていたら、もうこのテクニカルライター養成講座も不要になっているはずだ。






今月のお題

 6月号では、インターネットのダイヤルアップ接続とホームページ閲覧の手順を、1000字以内で説明せよというお題を出した。なかなかの難物だったのだろう。応募者も少なかった。

 今月号でも書いたが、ライターは好きなだけ文章を書けばいい、というわけではない。限られた字数で、最低限必要なことを要領よく書く訓練も必要だ。もちろん、単行本1冊分の説明が必要なテーマのものを、50字で解説するなどということはできない。ひと言で説明できないからこそ、1冊の本として詳しく解説するわけだ。
 だが、せめて200字、あるいは1000字くらいあれば、たいていのことは説明がつく。いや、たいていの説明ができる程度には、文章力を鍛えておいていただきたい。

 わずかな文字数で解説文を書く場合、たいせつなのは何を切り捨てるかだ。たとえば今回のお題のように、1000字で解説しなければならないケースなら、この1000字のうち700字程度でスポット的に重要なことを解説し、残り300字でその周辺をサラッと説明してしまう、といったテクニックも必要になる。

 たとえば、ホームページ閲覧のためにはブラウザを起動する必要がある。ブラウザを起動し、他の部分とは色の異る文字列や画像などをマウスでクリックすれば、リンクされているページにジャンプできる。このお題では、そのことだけがわかればいいだろう。それだけなら、わずか100〜150字程度で説明できるのだ。残り800〜900字ほどでダイヤルアップ接続について説明すれば、かなり詳しい解説ができるはず。

 このバランスも、いわば慣れの問題。いろいろな長さの解説を書いていれば、やがて身についてくるテクニックだ。あるいは、今月のお題でもいいが、好きなだけ書いてみて、あとでどんどん不要な部分を削っていくという練習もいい。削って削って、やがて300字程度でもそこそこわかる解説になっていることが発見できるだろう。


 今月のお題の回答は、実はすべて掲載してみたら面白いだろう。回答を寄せてくれた方ひとりひとりの解説が、実に異っているのだ。たとえば、小川祐司さんの回答では、まず最初にダイヤルアップネットワークのインストールとモデムやブラウザのセットアップは、すでに済んでいることとして解説をはじめている。これはこれで、ひとつのテクニックだ。限られた字数では、ユーザーの共通部分を省略するという手法も必要になる。

 OKAZAKI Hirokiさんのものは、解説はともかく、まず原稿の書き方を復習していただきたい。酷なようだが、たとえば改行の次の行頭が字下げされていないというのは論外。先月号でもちょっと触れたが、英数字は半角で書くといった、解説以前の基本をもう一度復習していただきたい。実はOKAZAKIさんだけでなく、こういう原稿を書く方は実に多いのだ。日本の文章教育が、まったくデタラメなのである。これは誰でもない、文部省の問題というべきかな。

 吉田裕一さんは、もう少し文章のリズムというものを考えてみると、もっとすっきりした解説になっただろう。元は悪くないのだ。だが、たとえば400字近くもの間に一度も改行がなかったり、1つの文章も長い。

 中島孝夫さんよーせーさんのお二人は、ともに箇条書きスタイルで書いていた。今月も説明したが、箇条書きで解説するのは諸刃の剣。まさか箇条書きで書けばわかりやすいと思ってらっしゃるのではないと思うが、1000字程度の原稿で箇条書きを使うのは逆効果だ。

 箇条書きとは、問題点をまとめたり、ヒントやポイントをわかりやすく提出するために必要となるもの。しかも、この箇条書きをする場合は、その倍以上の解説があってはじめて活きてくるものなのだ。
 また、箇条書きまでいかなくても、短いサイクルで解説のポイントを移している原稿もある。これは文章やポイントをどうつないでいったらいいのかわからないからだろう。つまるところ、文章を書き慣れていないだけなのだ。1つのポイントで、100字で解説を書いたり、まったく同じポイントで1000字の解説を書くなど、文章を書く練習をしてみるといいだろう。

 しかし、回答をお寄せいただいただけでも、実はずいぶんましだといえる。ライターになりたいと言いながら、文章などまったく書いていない人だって少なくない。ライターが文章を書かなくてどうするのか。とにかく自分でテーマを決め、さらに字数も決めて、解説をたくさん書く練習をお勧めして、今月のお題のまとめとしよう。

 なお、本書の連載は、
http://www.takei.gr.jp/ でも随時掲載しているので、バックナンバーを見てみたい方は、そちらものぞいてみていただきたい。


(お詫び)

[目次]

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