2004年09月30日

アフターダークと小説の終焉

 遅ればせながら、村上春樹の「アフターダーク」(村上春樹/講談社)を読みはじめた。
アフターダーク
 何てったって、「風の歌を聴け」からリアルタイムで読んできた。ただし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」あたりですっかり食傷気味で、それでも「ノルウェイの森」までは何とかついていったが、「海辺のカフカ」ではもう止めようと思った。読んだけど。

 好みの問題だし、ぼくの読書傾向そのものが、1979年の「風の歌を聴け」からだいぶ遠くへきてしまっていたという理由もある。
 だが、つい最近購入した小説の終焉
「小説の終焉」(川西政明/岩波新書)
を読んで納得した。
 この本では、二葉亭四迷の「浮雲」が発表されて以来120年の、日本の小説が追い求めてきたテーマ、積み上げてきた主題を考察し、そして大胆にも「小説はどうやら終焉の場所まで歩いてきてしまったらしい」と結論づけている。

「小説の終焉」では、1章で「私の終焉」「家の終焉」「性の終焉」「神の終焉」と、近代日本文学が追い求めてきた小説のテーマごとに、それらが終焉したことを語っている。
 2章では、「芥川龍之介の終焉」「志賀直哉の終焉」と続き、「大江健三郎の終焉」「村上春樹の終焉」まで、作家ごとのスタイルとテーマを語っている。そして3章が、「戦争の終焉」「革命の終焉」など時代と小説との関連を語っている。
 しかもそれらのテーマ、作家、時代は、互いに独立するものではなく、複雑にからみ合って、しかも互いに触媒として変化をもたらす存在として位置付けられている。

 このなかの作家として、村上春樹が取り上げられているのだが、さらに最後の最後で、「小説の終焉」として次のように記述されている。

 一九七〇(昭和四十五)年を境にして村上龍と村上春樹が登場した。春樹が『風の歌を聴け』を世に出したとき、小説の風向きも変わった。龍も春樹も既存の小説からの訣別を宣言して出発したが、彼らの小説は深い地下水脈で戦後以後の小説とつながっていた。その龍と春樹が終わりの場所まで歩いてしまった。『風の歌を聴け』の世界は『海辺のカフカ』で一巡し、春樹はふたたび風の音を聞く場所に立っていることが確認できよう。
――川西政明『小説の終焉』より

『海辺のカフカ』以後、つまり『アフターダーク』は、ではどのように位置付けられるのか。そんなことを考えながら『アフターダーク』を読むと、また異なった趣きさえある。
 もちろん川西は、『小説の終焉』によって、日本の小説が全的滅亡をした、といっているわけではない。だが、たしかに120年かかって綿々と綴られてきた小説は、どうやらここにきて滅亡しつつあるようだ。小説が存続するためには、非滅亡のかぼそい一線を発見し、そこから再び出発するしかない。
 その「かぼそい一線」は、残念ながら『アフターダーク』のなかにはまだ読み取れない。

投稿者 kazumi : 2004年09月30日 18:38

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